旧砂川は古代備前の国の大動脈であった
古代の山陽町は政治的にも経済的にも備前の国の重要な位置を占めていたであろうことは先に述べた。
当時,この他への人の往来や物資の流通は近隣はもちろん,他国からも頻繁に行われ,その手段は主として山陽道(古代)と砂川であったであろうことは想像に難くない。とりわけ船による物流は流通の主流であったであろう。
思うに山陽町に備前の国の国分寺・国分尼寺が置かれるなど政治の中心になったのは奈良時代であり,当時この地が立地的には備前の国ではもっともこれにふさわしいところであったからであろう。
砂川も現在と異なり豊かな水をたたえ,交通上からも望ましい用件を備えていたに違いない。しかしながらこのような砂川がいつ頃からか土砂に埋まり船の航行ができなくなっていったかを推定することは私どもの力では及ばない。ただ郡誌などには江戸時代前期頃の船の運航の記録や砂を献上している記録がある。
砂川がなぜ土砂で埋まったかについては次のような説がある。
その一つは砂川の上流での砂鉄の採取,もう一つは焼き畑農業であろうというものである。もともと砂川上流は風化しやすい花崗岩地帯であり,これらにより岩が砂となり雨により浸食して下流に運ばれたものであろうと言われている。
現在の砂川は平島地区の西端を流れており,特にこの地域は水流が少なく地域の住民との関わりは少なくなっている。
将来この砂川がどのような存在となっていくかは分からないが,古代から改修がなされた江戸中期までは砂川は地域の中央を流れ地域の住民とは深い関わりを持っていた川であったことを,この地にすむものとして記憶に留めてほしいと思う。