「砂川にも船の往来があった」
「瀬戸町誌」によれば,砂川の運行について次のような記述がある。
「旧砂川は,現在の川替えされた砂川よりも低いところを流れており船運があった」寛永元年(1661)の「磐梨郡大絵図」によれば「砂川は赤坂郡より上東平島酒井まで川長弐拾五町・常に水なし,洪水二半日程なし」と注記してある。
この注記は矛盾がある。水がないとしながら船運があることを示している。山陽町河本の旧砂川沿いに「入船屋敷」という屋敷があり五日市には船着き場があって,かつて上流から筏に組んで流した材木をあげていたといい,井堰跡は「船通し」という呼び名が残っている。更に上流の赤坂町多賀には旧河道が湾流していて段丘の岸の石垣の上端に船繋ぎ石があることも船運があったことの傍証になる。この記述の中にはどのようなものを運んだかについてはふれていない。
そこで,高瀬舟の発表をひもといてみると隆盛時には船主は数人おり,その所有数も百艘を超える人もいたといい,運搬する品物は主として下りは薪と炭,上りは海産物など生活必需品であったと記されている。このことからして砂川の船もおそらくそのような物を運搬していたのではなかろうか。
なお,砂川には江戸期まで平田船が往来し,塩の搬入,鉄,米の搬出が行われ,又上流と下流では船の大きさも異なり,荷を積み替えていたようである。時代によって運搬された内容はかなり変化があったのではなかろうか。当時のことを知る何らかの手がかりはないものだろうか。